いまここね

どんなだってこれが今の自分

傷を癒すこと

わたしは以前、人を酷く傷つけた。
本当に酷い傷つけ方をした。
相手がどれだけ傷つくのかという想像力がなかった。愚かだったと思う。今になって、その状況と似たようなな形で傷つけられた。
加害者だったわたしが被害者になって、深く傷ついて初めて自分がしたことの愚かさ、残忍さを思い知った。相手が感じたであろう深い絶望と憎しみを知った。
因果応報とはこのことだ。

わたしは愚かだ。
自分で体験して初めて色んなことに気付く。
想像力が足りないと思う。
けれど、自分が加害者であったことを受け止められて良かった。
加害者の気持ちも被害者の気持ちも知ることができた。
でもそんなことはきれいにまとめようとしている見栄かもしれない。まだ上手く整理が出来ていない。

人はいつでも傷つき傷つける可能性を孕んで生きている。
どちらも避けることは不可能だ。

わたしは深く傷ついている。
複数の出来事が絡み合っていて、その全てに傷ついている。今までそれをずっと封印しようとしてきた。
なかった事にしたかった。
傷ついている自分に向き合うということは、自分が傷つけられたという事を認める事で敗北宣言をする事だからとても苦しい。

相手にされた事を責められなかった。愛していた相手に蔑ろにされたという事実を認めたくなかった。わたしが相手にされた事を重く受け止める程の小さい器の人間だと認める事のような気がしていた。こんな事で傷付いていたら厳しい社会など渡り歩いて行けないじゃないか、だからわたしはそんなに傷ついてない、というアピールをしたかった。
でも実際は情けなく立ち直れないほどズタボロに傷ついていた。

今、信田さよ子の「傷つく人、傷つける人」という本を読んでいる。
傷ついていることをなかった事にしなくていいと書いてあった。
噛み締めていいと、水に流さなくていいと、忘れなくていいと、自分を悪いと思わなくていいと、書いてあって、わたしはホッとして泣いた。
自分を責める癖が染みついているらしい。

自分はかわいそうなどと言うつもりはない。
なかった事にするのではなく、受け止めることで前に進むんだ。
噛み締めたから手放せる気がしている。